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2008/11/26

入院生活も3日目を向かえたが、症状は回復せず目が見えないのでひたすらベッドで横になっている事しか出来なかったが、毎日スガラヤの日本語教室の生徒が見舞いに来てくれて話し相手になってくれた事は嬉しかった。

そんな会話の中で
「空港が占拠されちゃいましたよ」と一人の生徒が言った。

へ、占拠?
最初は理解が出来なかったが、スガラヤが新聞を買ってきてくれて読んでもらうと反政府組織が空港を占拠し、一切の入出国が出来ない状態で、写真には大勢の旅行者が空港で足止めをされている状況が載っていた。
この時はあの日インドに行ってればこの状況に巻き込まれる事も無かったのにと思ったりもした。

しかし翌日更に大きな事件が起こった。
インド・ムンバイでの多発テロ、テロが起きたムンバイは自分のインド最初の街であった。

自分は神の存在も信じていないし、いかなる信仰もしていないが、この時は見えない大きな力が働いて自分はこうして今ここに居るんだなと思わさせられた。

睡眠薬強盗にあったが外傷はなかった、もしあのままインドに行っていたらムンバイでテロに巻き込まれた可能性もあった。
悪いと思われる事が起きても、もう一方では良い事?というか救われる部分もあるんだと。
唯一知っているフランスの諺が頭に浮かぶ、
「C`est la vie」?それが人生だ?
「全ては繋がっている」と感じさせる出来事だった。

スガラヤは日本に居た時に母親に凄い助けてもらったと話してくれた、そして時を経て今度は自分がスガラヤに色々と助けてもらった。
生きていく中で人との繋がりはとっても大切な事であり、自分の周りに居る人達への感謝・大切に想う気持ちをいつまでも風化させずに繋げていきたいと思う。

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2008/11/24

朝、目が覚めると両目共に開ける事が出来ず、激しい痛みがあった。
コンタクトを2日間外さずに着用していた影響だと思い暫くすれば治るだろうとその時は思っていた。

昼過ぎになると何とか目を開けられる様になったが、明るい場所を見る事は出来ず暗がりでしか行動が出来ない状態だった。
スガラヤは自分の目を見てとても心配して病院に行ったほうがいいと強く薦めたが、明日になれば回復するじゃないかとまだ思っていた。
(後で鏡を見たら白目部分が真っ赤になっており、コンタクトの着用だけではなく薬の影響もあったのかもしれない)

夕方になっても痛みは一向に引かず悶えている自分を見かねて、取り敢えず検査をしに知り合いの先生に診てもらおうという事になった。
町医者の先生は診察室にポロシャツ・チノパンという出で立ちで現れて自分の目を軽く診察した後に
「今日入院しないと失明する」
「2週間は入院しないと治らない」
「膿が出来ているので急いで注射しないと危ない」

おいおい、ちょっと待ってくれ。
今後も旅を続ける上で必要な対応を早くしたかったし、こんなあっさりとした診察でいきなり2週間も入院しなさいと言われても納得出来なかった。
そう駄々をこねている自分を見て、スガラヤは自分の両親に連絡し只でさえ強盗の件で心配をかけているので両親からの説得には応じる他無く入院する事になった。

病院に着くと早速注射が待っていた。
今までまぶたに注射をした事はあったが目玉になんてした事が無かったので、子供の頃の注射に対する恐怖が蘇って来た。
想像通り激しく痛く、注射が終わって肩を撫で下ろしているとあと2本打ちますよと言われ有無も言わさず残り2本の注射が打ち込まれた。

その夜は外国で1人、突然入院する事になったさみしさと今後の不透明な状況に不安が募り中々眠る事が出来なかった。
2008/11/22

辛かったベトナムからタイに戻ってきて遂にインドへ向かう時に事件は起きた。
その日は昼過ぎのエアポートバスに乗り夕方にはタイを発ち、夜にはインドにいる筈だった。

タイでの最後の日もいつも通り屋台で朝食を済ませて街を歩いていた。
すると一人の女性が声を掛けてきた。
「チェンマイから遊びに来てるんだけど、ネットが出来る店を知ってますか?」
いつも通っているネットカフェに案内し、ついでに自分もメールの確認などしてお店を出ると先程の彼女がが入り口の前にいて、一緒にお昼を食べに行かないか?と誘われた。
バスの時間までは1時間以上あったのでその誘いを受けご飯を食べに行く事にした、近場のタイ料理のお店で食事をしていると、偶然を装って(のはずは無いんだけど)彼女の姉と母親と名乗る人が現れ一緒に食事する事に。

この姉から、空港の方面に住んでおり、車で来てるし妹も家に泊まるので一緒に乗せて行ってあげると提案があった。
妹さん1人の時は警戒をしていたが、母親の登場が自分の中では大きかったし(家族を装ったプロだと後から判明した)、既にタイという国とタイ人の事が好きになっていた自分は送ってもらう様にお願いした。

車に乗り何気なく「パイナップル」を進められた、東南アジアでは毎日フルーツを食べていてその中でもパイナップルは特にお気に入りだった事もあり、何気無しに食べた後から確かな記憶は途切れている。
(パイナップルに麻酔薬or軽めの睡眠薬が塗布されていた)
その後断片的な記憶の中で、車から降りた事、どこかの建物に入った事、ベッドで寝てる事、そしてより強い睡眠薬を飲まされて記憶は完全に途切れた。

目が覚めて時計を見ると飛行機の出発時間まで1時間半になっている、急いで体を起こそうとするが上手く動かない、部屋もとても静かで人の気配がしない。
まさかと思い隣の部屋に行くと自分の荷物が散乱していた、部屋を出て誰かに事情を聞こうとするが頭もボーっとしているし、体が自分の意思通りに動かせず少しの段差にも躓き転んでしまう。

そんな自分の姿をみた従業員が心配して話しかけてくるがタイ語の為わからない。
どうしようかと思い部屋に帰り、荷物を確認すると携帯電話が残っていた。
日本大使館の番号も分からないし、とりあえず実家に電話すると母親が出たので回らない頭で事の次第を説明したらスガラヤに連絡して折り返し電話するから待ってなさいという事。

部屋で待っているとスガラヤから連絡がありバンコクに住む友達に迎えに行くようにお願いした事、今後の対応も含めてウドンタニ(スガラヤの住んでいる場所)に来ないかと言われ現金・カードなど全て無くなり1文無しの自分は頼れる知り合いの元へ尋ねる事にした。
(この時に初めて朝4時だった事を知り、前日の昼から眠り続けていた事がわかった)

スガラヤの友達が来る迄の間、ホテルの人達はとても気にかけてくれ駐車場係りのおっちゃんは朝食をご馳走してくれた。

バスに乗りウドンタニへ向かう車内では色々な事が頭を巡ったが、不思議と犯人達に対しての怒りは無かった、ただ自分の慢心・油断が今回の事故を招いた結果として冷静に受け止めていた。

夕方ウドンタニのバス停でパパとサンタ君が迎えに来てくれており、その日初めて安心した気持ちになった。
家に帰りスガラヤとお互いに思い描いていたよりも随分早い再会を果たした。
2008/11/16

ハノイの街へ移動しハロン湾クルーズツアーへ
「海の桂林」と呼ばれるハロン湾。
自分の中でベトナムで行ってみたい一番の場所だった。

ベトナム06(ハロン湾)
圧倒的な自然美に向かって続々と船が集まっていく

ベトナム11(ハロン湾)
仙人でも住んでそうな雰囲気

暖かな日差しの中、波に揺られ視界には360度全て絶景が広がる、そんな船の甲板の上に寝転がりながら過ごした時間は素晴らしかった。

その後、鍾乳洞へ
ベトナム13(ハロン湾)ベトナム12(ハロン湾)
洞窟内は様々な色にライトアップされていたのは、異空間を演出!?

ベトナム07(ハロン湾)
帰りは船の上から夕陽を眺めてツアー終了

素晴らしい景観を見た後は一緒のツアーに参加していた前田さんと夕飯を食べに行き生春巻きにリベンジを挑んだが見事に撃沈して1日を終えた。